ご由緒
御祭神
「淤母陀琉神」(おもだるのかみ)
「阿夜訶志古泥神」(あやかしこねのかみ)
天地が誕生したのちに現れた7代目の神々(神代七代)のうち6代目にあたる男女の神です。面足尊ともいい、オモダルは「整った容貌」の意味、アヤカシコネは「畏れ多い女性」の意味とされ、男女の人体の完成、整った容貌への畏怖をあらわしています。そのため、美容や技芸上達、夫婦円満、万物創造の神として信仰されています。
相殿神
「櫛御食野神」(くしみけぬのかみ)
別名を須佐之男命といい、出雲地方を荒らす八岐大蛇を退治し、大蛇に人身御供されるはずだった櫛名田比売と結婚したことから、縁結びの神として知られています。また、その強い力から疫病除けの神としても信仰されています。
由緒について
当社の創建は定かではありませんが、穏田と呼ばれたこの地の産土神として古くより信仰されてきました。天正18年(1590)に徳川家康が関東の領主になると、翌年、家康に従っていた伊賀衆がこの穏田の地を賜りました。これは伊賀衆が本能寺の変の際に京都にいて命を狙われた家康を東国へと導いた「伊賀越え」などの武功によるものです。
(左:元禄6年(1693)古地図、右:安政4年古地図)
神仏習合の時代だった江戸時代には、御祭神と同一とされる天界の王「第六天」を祀り、当社は「第六天社」と称されていました。明治維新によって神仏が分けられると現在の社名に改称されました。
また江戸時代、この地は水が豊かだったことから多くの田畑が広がっており、渋谷川には多くの水車がありました。その様子は葛飾北斎の『富嶽三十六景』の中にも描かれています。
(左:絵本 江戸みやげ ー穏田熊野大権現ー、右:葛飾北斎『富嶽三十六景 隠田の水車』)
明治18年(1885)には、穏田村84番地(現在の神宮前6丁目)にあった熊野神社を合祀しました。熊野神社があった地は、加賀・前田家とゆかりの深い浅野家が治めていたことがあり、合祀の際に移築した当社の手水舎には前田家の家紋が刻まれています。
昭和天皇御大典の記念事業として、社殿の増改築・社務所の新築、神楽殿・手水舎等の改修を行い、神社施設を完備しました。当時まだ当社は無格社でしたが、千駄ヶ谷町合併に伴い、氏子の誠意によって昭和3年9月25日に社格申請をし、同年11月2日に村社に昇格しました。
昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲の際には、神輿庫を除いてすべてが消失しました。しかし、氏子崇敬者の敬神の真心と献身的なご尽力により、小松公爵邸にあった邸内社や灯籠が払い下げられるなどして当社の施設は再建されました。
しかし、戦後50年を経て施設の老朽化が著しく、平成8年(1996)に全面的な改築を行い、平成10年(1998)に社殿や社務所、神輿庫が新築され、稲荷社・手水舎は移築されました。
現在はファッション・アパレル、美容関係を中心に多くの店舗や企業が立ち並ぶようになり、新たな文化流行の発信地として世界中から多くの人々が集まる街になりました。当社は街の鎮守として、この地で生活している人々をお守りしています。